川合玉堂「海辺双鶴」
玉堂が晩年に描いた作品。
70歳を過ぎてもその腕は全く衰えることなく、筆に勢いがあります。それぞれの鶴の、重心のかかる足の方は太く、力強く描かれています。

玉堂が晩年に描いた作品。
70歳を過ぎてもその腕は全く衰えることなく、筆に勢いがあります。それぞれの鶴の、重心のかかる足の方は太く、力強く描かれています。

川合玉堂(かわい・ぎょくどう) 1873〜1957
明治6年11月24日、愛知県葉栗郡外割田村に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、明治20年13歳から京都の日本画家・望月玉泉に入門。明治23年、17歳のとき円山四条派の修行を始め、この年に雅号を「玉堂に改め、第三回内国勧業博覧会に入選する。
明治29年、23歳のとき上京し橋本雅邦に入門。明治31年、岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院創立に参加。明治40年には34歳の若さで第一回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、大正4年からは東京美術学校日本画家教授となり、日本画壇の中心的存在となる。大正5年、第10回文展に「行く春」を出店、この作品は後に重要文化財に指定される。昭和6年、イタリアよりグラン・オフィシェークーロンヌ勲章を、フランスよりレジョン・ド・ヌール勲章を、それぞれ受章。昭和10年勲三等瑠宝章受章。昭和15年には文化勲章を受章。
戦時中の昭和19年に、頻繁に写生に訪れていた西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に移り住む。昭和26年、文化功労賞に選ばれる。昭和30年、東京都名誉都民となる。昭和32年、6月30日、病により逝去。同日、正三位勲一等旭日大綬章を賜る。日本人の心の奥に潜む細やかな感情が巧みに表現されており、多くの人々に深い共感と安らぎを与えている。